
2008年11月


忠孝を旨とし 文武の鍛練を励め。
礼儀をわきまえ郷中の団結を心がけよ。山坂達者(山を走って足腰を鍛える)を励め。何事にも詮議を尽し方針が定まった後は異論を立てず言い訳をするな。嘘をつくな。弱音を吐くな。卑怯な振る舞いはするな。短気を起こすな。弱い者をいじめるな。目上を重んじ親に反抗するな。無刀で門外へ出てはならない。脇差一本を身に付けて町の辻角をまわるな。いかなる時でも刀を抜いてはならない。抜けば ただでは鞘に納めるな。『泣こかい飛ぼかい泣こよかひっ飛べ』とは鹿児島に今も伝わる童謡の一節ごあんが こげな意味ごわす。高い崖の上で子供が恐怖心で立ち尽くしたまま泣いている。そんな子供に対して『泣いて迷っているくらいなら思い切って跳んでみろ』ちこっごあんどな。勇壮 勇敢 勇気ちいうとは薩摩にとって徹底的に養うもんやったとごわすなぁ。素晴らしか。チェストいけ!

江戸時代 徳川幕府に朝鮮通信使が来て訪ねました。『日本には目付け役(警察官)の居ない藩があると聞いていますが本当でしょうか?』幕臣は即座に答えました。『それは薩摩という藩です』
薩摩人は罪を犯した時 役人が来る前に自らを処分するのを習慣としていたので目付け役が居なかったのですね。流石ごわす。続けます。
イギリスは文久三年の薩英戦争ののち薩摩と親交を重ねましたが 維新後 日本が日清戦争 日露戦争で眠れる獅子と呼ばれた清国 世界最強と言われた陸軍と大艦隊を擁するロシアの二大強国に勝った時 大活躍をしたのが鹿児島出身の将軍達であったのを見て郷中教育を研究した。明治43年ジョ-ジ5世の戴冠式に出席した乃木大将はボ-イスカウトの訓練を見学し その勇壮なさまに感心して創始者のベ-デンパウエル卿に聞いた。『どのようにしてこんなに優れた青少年鍛練の制度を考案されたのですか?』パウエル卿は答えた。
『これは貴方の国の薩摩の郷中教育制度を研究し その長所をとって作り上げました。』幕末の薩摩を訪れたイギリス軍は郷中教育の徹底した武士道養成の方針を見逃していなかったのである』
こん事は あまり知られちょらん事実ごわす。幕末の薩摩は ほんなこて世界中の何処ん国にも誇れる藩ごわひなぁ。素晴らしか。

『四十七士の義挙にいくらか先立つ薩摩藩十九代島津光久の治世に鹿児島城下で少年の決闘事件が起こった。日高喜兵衛という十一歳の少年が隣家の貴島某という同い年の遊び友達と近所の神社の境内で独楽を回して遊んでいた。稚児の頃から気が合い 互いの家に出入りして睦まじい仲であったが独楽遊びをするうち言い争いになり いつになく互いに激昂して刀を抜こうとした。日高は小柄であったので刀身が鞘に残って抜けない。貴島が手伝って刀を抜いてやった。双方が抜きあわせ闘って貴島が討たれて死んだ。日高少年は帰宅して親に告げた。『おいが刀を抜けんがった時 貴島が斬りつけてくれば勝負に勝つ訳もなかったとごわす。一時も早く死なにゃ申し訳がたちもはん。』両親はまだ幼い息子を死なさねばならぬかと悲嘆にくれ親戚を呼び集め遊び友達をも呼び寄せた。喜兵衛は友人達にも残らず暇乞いをして勇みたつような口調で言う。『おいは こいから切腹すっど。』親戚は少年の切腹するさまを見るに忍びない。介錯を引き受けた縁者の侍が喜兵衛を庭へ連れだした。『自害はそ
げん急ぐもんではなか。庭に出て見納めに辺りを廻ってきやい。』喜兵衛はすすめに応じ庭へ出た。介錯の侍は喜兵衛の両親から見えない木陰に歩み入り抜きうちに首を打ちおとした。肉親は嘆き悲しんだが喜兵衛が断末魔の苦痛を味わう事なくすんだのを せめてもの慰めとした。薩摩藩の士風はそのような勁烈なものであった』 うーん……
こいもまた凄まじか話ごあんが。

平戸藩主松浦静山著『甲子夜話』より『薩摩には兵児二才組という男伊達の党がある。党の規律は厳重で書物の輪読 武芸鍛練を専らとし 路上でゆきあう女性に目を向けただけで厳罰を被る。火縄銃遊びというのがある。皆で車座になり天井から荒縄で水平に吊し年長者が弾丸硝薬を込め縄によりをかけ 火縄銃がぐるぐる回り始めると皆で あぐらを組み胸を張って銃口を睨みつける。火縄が燃えつき弾丸が発射されるまで二才達は瞬きもしない。彼等の間を弾丸が飛び去ればいいが命中すれば命が無い。当たっても落胆したり悲しむ事がなく それを幾度も繰り返し肝を練るのである。郷中教育は青少年の自治に任せられていて父兄が口出しは出来ない。卑怯な振る舞いをして自決が出来ない者は二才達が相談して焼酎を飲めるだけ飲ませ泥酔すると高い枕をさせて寝かせる。その枕を蹴り飛ばすと頚骨が折れて即死した。これは戦場で用いられた格闘の技術を応用したものであった』とあります。凄まじかなぁ。二才頭さぁ 今度の南洲会では火縄銃遊びでんしもんそかい?